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浄土ヶ浜の四季  № Ⅲ

2011’ 3’ 11 あの東日本大震災から早くも三年の月日が経ちました。
この度やっと被災地( 宮古 )を訪れることができました。
幸いという言葉は不謹慎なのですが、東日本に親戚はひとりも居らず、たった一人の友人は
幸いにも床下浸水で難を逃れました。
私に出来ることはただ一つ、犠牲に遭われた多くの方々のためにお祈りすることのみでした。

「 ここから過去の津波浸水区間 」の標識があります。これより宮古津軽石川を遡ります。

津波区間 前方2,220m 後方60m

草が生い茂っている箇所は以前は民家が立ち並んでいたところです。

世界に誇る10mの防波堤を乗り越えてあっという間に全ての物を飲み込まれました。

あちらこちらで復興のための重機が動いています。

高台に仮設住宅が並んでいます。
被災地の復興はまだ見える形では進んでいません。
そこには被災者にとって自分たちが取り残され、忘れられていく失望感があるようです。
「 いっぽいっぽ岩手 」「 いっぽいっぽ山田 」では各教会から派遣されたボランティアが子どもたちのために「 放課後プログラム 」を行い、遊び場や学ぶ部屋を失った子どもたちに寄り添う働きをしています。
また仮設住宅の集会所では「 お茶っ子 」を開き傾聴ボランティアを行い被災者に寄り添っています。

津軽石駅
JR東日本山田線の駅。
東日本大震災による被害のため未だに営業休止中。

3月11日午後2時46分。東日本大震災の発生時刻に、津波で被害を受けた宮古市
JR津軽石駅をダイヤ通り発車しようとした列車があった。
乗客・乗務員は運行管理センターからの指示と住民の協力でいち早く安全な場所に避難し、
間一髪、津波から逃れることができました。

閉伊川
宮古湾の最も奥に注いでいて、本州で最も鮭が遡上する川として有名です。
震災から1ヶ月後、停電などの影響にも負けず育った100匹の稚魚。
赤前小学校の児童たちの手により、がれきの残る閉伊川を大海原に向かって旅立ちました。
幾多の苦難を乗り越え、約4年の歳月をかけてふるさとの川に帰ってきます。
来年はそのたくましくなって帰って来る鮭との再会です。

高台にある宮古漁業協同組合。宮古湾を一望できます。
津波の時はここに多くの人たちが避難しました。

宮古漁業協同組合から撮影した震災当日の写真です。
上記の写真の金網ごしに津波を見ているのが分かります。
2001’09’11 アメリ同時多発テロの映像を見るような、この世のものとは思えない
信じられない光景だったのではないでしょうか。

                      復興中の宮古湾 

高台にある宮古漁業組合入口の左側に石川啄木の記念碑がありました。

「 石川啄木寄港の地 」
啄木が釧路の新聞社を辞め函館を経て、上京の途中、酒田川丸に乗って宮古港に寄港したのは
明治41年4月6日のことであった。
この旅は啄木にとって老母と妻子を北海道に残し、自分の文学的運命を賭けた文字通り悲壮な
船旅であった。


     「 明治41年4月6日
       起きて見れば雨が波のしぶきと共に甲板を洗うて居る。
       灰色の濃霧が眼界を閉じて海は灰色の波を挙げている。
       船は灰色の波にもまれて、木の葉の如く太平洋の中に漂うて居る。
       10時頃瓦斯が晴れた。
       午後2時10分宮古港に入港する・・・( 以下省略 ) 」

この碑文には「 啄木日記 」の中の当日の全文が書かれています。

老母と妻子を捨て二度と北海道に戻ることはなかった啄木は嫌いだ・・・と友はポツリつぶやきました。