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ジブリ美術館   8月12日

今回の旅行の一番の目的は三鷹の森ジブリ美術館
娘の住む国分寺駅から四つ目の駅、三鷹で下車し、駅前からジブリ美術館
行きのバスで10分ほどです。

          ジブリ美術館行き黄色いバス

三鷹玉川上水といえば、太宰治が入水自殺した場所として有名です。
その多摩川上水沿いを走ります。
太宰の墓も、三鷹近くの禅林寺にあります。

 太宰治は、明治42年(1909)青森県北津軽郡金木村(現金木町)に、
県内屈指の大地主の子として生まれる。
東京帝国大学仏文科在学中に井伏鱒ニに出会い、師事する。
昭和14年(1939)1月、井伏夫妻の媒酌で結婚。
同年9月に甲府から三鷹の下蓮雀に転居。
以降、終戦前後の疎開を除き、昭和23年6月玉川上水に入水するまでを
三鷹で過ごす。

           左側の茂みの中が多摩川上水

 昭和22年7月から4番目の仕事場・旧千草(現ベル荘)へ。
よく通った飲み屋の2階を仕事部屋として借りたもので、その部屋の窓は、
狭い路を隔てて、彼の死の道連れとなった山崎富栄の部屋に面していた。
この山崎富栄の下宿であった旧野川家(現永塚葬儀社)の2階の一室も
仕事場として使われた。
そして昭和23年6月13日の深更、この部屋から二人は玉川上水にむかい、
自らその39年の生涯を終える。

    多摩川上水に架かる萬助橋。左手方向が紫橋。
       その中間あたりで太宰治は入水したようです。

太宰治記念碑文も近くのあります。
 「四月なかば、ひるごろの事である。頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると
流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い青い枝葉が両側から覆い
かぶさり、青葉のトンネルのようである。・・・・」  
                         太宰 治「乞食学生」より

 3代将軍、徳川家光の時代になると、江戸の人口はどんどん増え、それまでの
水道だけでは、飲み水が足りなくなります。
承応(元年(1652)に、江戸幕府は水量(すいりょう)が豊富(ほうふ)な多摩川から、
江戸に上水を引く計画を立てました。

その工事を請け負ったのが玉川庄右衛門、清右衛門の兄弟だと言われています。
玉川兄弟は羽村に取り入れ口を造って多摩川の水を引き、四谷大木戸まで約43Kの
上水路を完成させました。

玉川上水は、当時の水道としては世界一の規模で、幕末から明治初めにかけて
日本に来た外国人を驚かせたのが、奈良の大仏玉川上水であったと言われて
いるほどです。

昭和30年代までは東京都の水道水源の8割を占めていた多摩川ですが、1964(昭和39)年の
「オリンピック渇水」を契機に、他水系へ水源を求めるようになり現在では約2割弱となっていますが、
依然として玉川上水は、東京の人々に飲み水を供給し続けています。