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4月 オアシス会  ( 4月 1日 )

マンサクのお花が見ごろを過ぎ、ここ数日の間に家の周りの雪も見る見るうちに消え、
待ち構えていたかのように福寿草、一華(イチゲ)のお花が咲き揃いました。

今日は風がまだちょっと冷たいけれど、良い天気!
月一度のオアシス会です。
いつもは車で13分の距離ですが、今日は教会まで歩くことにしました。
広野( 自宅 )から寒沢町( 教会 )までなんと1時間の道のりです。

ジョン万次郎・・・誰でもこのお名前はご存知ではないでしょうか。
今日のオアシス会では毎週土曜日午前5時から青森テレビで放映されている
ライフラインのDVDからジョン万次郎と聖書の接点を岩松牧師から学びました。

人の運命とは実に不思議なものです。
日本にいれば読み書きもできない漁師で終わったであろうに、遭難という人生最大のトラブルにあいながら、開成学校( 東京大学 )の教授にまでになりました。

この数奇な運命を乗り越えていくには、当然尋常な努力ではここまで登りつめることは
できなかったでしょうが万次郎にとっていくつかのラッキーな事がありました。
まず助けられた相手がホイットフィールド船長であった事が最大の幸運であったと言えます。

中浜万次郎ことジョン万次郎は土佐の西端幡多郡中浜の貧しい漁師の二男として1827年1月27日生まれ、9才で父を亡くし母親はほんの小さな田を小作し、稲穂がまだ実らず青い頃にしごいてきて石臼で煎り、粉にして子供たちに食べさせたほどの貧しい生活でありました。
万次郎は幼いころから働き、寺子屋に通う余裕も無かったため読み書きも殆どできませんでした。

そんな万次郎少年14才で宇佐に出稼ぎに来て漁師仲間4人と漁に出て嵐に遭い遭難。
5日半の漂流後奇跡的に伊豆諸島の無人島、鳥島に漂着し143日間の過酷な生活を強いられます。
60〜70日雨が降らず、自らの小便を手に受け飲み、アホウドリを捕まえて食べ命を繋ぎます。
そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助されます。


日本はまだ鎖国の時代。
漂流者のうち年配の者たちは寄港先のハワイで降ろされ、万次郎は船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られ本人の希望もあり、そのまま一緒に航海に出ます。
生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚く。
この時、船名にちなみジョン・マンの愛称をアメリカ人からつけられます。

その後、アメリカ本土に渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子となり一緒に暮し、1843年オックスフォード学校、1844年にはバーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。

万次郎は寝る間を惜しんで熱心に勉強し首席となります。
「万次郎はクラスでいつも首席であり、学習に完全に没頭していた。恥ずかしがりやで態度はいつも静かで、慎み深く丁寧であった」 と学友の記録にあります。

民主主義や男女平等など、日本人には新鮮な概念に触れる一方、人種差別も経験します。
フェアヘブンに帰ってまず船長は万次郎を所属するオーソドックス教会の日曜学校に入れようとしますが、「我が教会は黒人まがいの者を同席させるわけにはゆかない」と断られてしまいます。
次の日曜日も別の教会へ連れて行くがそこでも断られてしまいます。

結局万次郎を受け入れてくれた教会は当時邪道と言われていたユニタリアン教会でした。
船長は後妻としてもらったばかりのアルバチーナ夫人と共にこの教会に宗旨変えします。
この事は船長が万次郎に示した最大級の敬意でした。

10年間船長と共に生活するなかで万次郎は船長のことを「 この世で最良の人・・・」と手紙に書いていたそうです。

「 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ 」

「 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ 」  マタイ 22章37〜39節

隣人愛の実践者・ホイットフィールド船長との運命の出会い。
帰国後は後藤象二郎岩崎弥太郎河田小龍大鳥圭介箕作麟祥勝海舟福沢諭吉、細川潤次郎、坂本龍馬などにアメリカの様々な文物を紹介し、西洋知識を貪欲に吸収しようとしていた幕末の志士や知識人達に多大な影響を与え、日本の近代化のためにジョン万次郎は神に選ばれた人でした。

                       聖歌 414

           重荷をおいて悩むとき 「 我に来たれ 」 と呼びたもう

           みこえを聞かばいますぐに みたまのいえるごとくせよ

           みたまのいえるごとくせよ 心をかたくするなかれ

           いますぐに みたまのいえるごとくせよ