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福沢諭吉とA・C・ショー     7月 8日

7月の弘前福音キリスト教会の「 オアシス会 」では福沢諭吉キリスト教との関わりを
ライフ・ラインのDVDを拝見した後、岩松牧師からお話しをお伺いしました。

福沢諭吉キリスト教と出会ったのは青年時代のことである。
文久2年( 1862 )27歳の時、徳川幕府の遣欧使節であった竹中下野守保徳並びに
その使節団一行が、ヨーロッパを視察中にロンドンを訪問したところ、イギリス聖書教会は
一行の一人ひとりに一冊ずつ、新約聖書の英訳聖書を贈ったといわれている。
この時、翻訳方として随行していたのが、福沢諭吉であった。
ただし、聖書は当時の幕府が禁教の対象としていたキリスト教聖典であったため、一行は
驚いて、あわてて聖書をイギリス聖書教会に返却した。
これが福沢諭吉キリスト教の聖書にじかに触れた最初のことであった。

福沢諭吉キリシタン禁制下で拷問を受けたキリスト教徒二川一謄の鉄鎖をはずさせるために
一肌脱いで感謝されただけでなく、禁教令撤廃直後に来日した英国国教会SPG宣教師、
アレクサンダー・C・ショー、女性宣教師アリス・ホア、その10年後に来日したアーサー・ロイドの
宣教に対して、多くの特別の援助を与えた。

ショーは在日英国公使館付き牧師で、福沢諭吉とは来日5か月目に接し、慶応義塾内の福沢家の
隣に西洋館を建ててもらい、そこに住んで福沢諭吉の子供たちの家庭教師となる。
3年後にその西洋館を去った後も友情を深め、27年にわたり福沢家の人たちと親密な交際を
重ねた。

明治4年10月、福沢諭吉は二人の息子、一太郎と捨次郎に対して、立ち振る舞いを教えるため
漢字を極力抑え、ほとんどひらがなを用いて、福沢自身の手で記した「 ひゞのをしへ 」という
教訓書を与えている。

世の中に父母ほどよきものはなし。
父母よりしんせつなるものはなし。
父母のながくいきてじょうぶなるは、子供のねがふところなれども、
けふはいきて、あすはしぬるもわからず。
父、母のいきしにはごっどの心にあり。
ごっどは父母をこしらえ、ごっどは父母をいかし、また父母をしなせることもあるべし。
天地万物なにもかも、ごっどのつくらざるものなし。
子供のときよりごっどのありがたきをしり、ごっどのこころにしたがふべきものなり。
てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこころにしたがふべし。
ただしここにいふてんとうさまとは、にちりんのことにあらず。
西洋のことばでごっどといひ、にほんのことばにほんやくすれば、ざうぶつしゃ( 造物者 )
というものなり。

シナイ山で神がモーセに示した「 十戒 」の中の5番目に書かれている
「 あなたの父と母を敬え 」を子どもたちに解りやすく教えています。

1902年「 宗教の大敵 」と内村鑑三から避難もされましたが、4男5女の9人の子供たちに
恵まれ、福沢諭吉自身はクルスチャンにならなかったものの、係累にはクルスチャンが少なからず
いたという事実を知りました。

一太郎
福沢諭吉長男。文久3年(1863)10月12日生、昭和13年(1938)6月24日没。
明治16〜21年(1883〜1888)米国コーネル大学留学。明治40年(1907)第3代慶應義塾社頭。
大正11〜12年(1922〜1923)塾長。

捨次郎。
福澤諭吉の二男として江戸に生まれる。1883(M16)慶応義塾を卒業し、883〜1888(M21)アメリカに留学する。
マサチューセッツ工科大学で鉄道工学を修めたのち帰国する。
山陽電鉄株式会社に技師として入るが、1901父の死に遭い、時事新報社の経営を引きつぎ社長となる。
政治記事にかたよらず社会記事にも工夫をこらし漫画を入れるなど紙面を刷新する。
大阪時事新報社を設立してその社長もかねる。他に、慶応義塾評議員
1907(M40)5月〜1917(T6)10月まで慶応義塾理事を務めた。

諭吉の姉、中上川婉は若き時よりクリスチャンになり、また末の姉、服部鐘も熱心な日本ハリストス
正教会の信徒でした。
諭吉の三女、清岡俊、四女、志立滝もショーが創立した東京の聖アンデレ教会所属の信徒でした。

四女の滝は東京YWCAの会長を20年の長きにわたり務めました。
YWCA(ワイ・ダブリュー・シー・エー/Young Women's Christian Association)は、キリスト教を基盤に、
世界中の女性が言語や文化の壁を越えて力を合わせ、女性の社会参画を進め、人権や健康や環境が守られる平和な世界を実現する国際NGOです。 1855年英国で始まり、今では日本を含む125あまりの国と地域で約2,500万人の女性たちが活動しています。

福沢諭吉といえば誰でも大好きな一万円札ですよね。
そしてなによりも「 学問のすすめ 」

「 天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといえり。
  血に交わりて赤くならず。
  門閥制度は親のかたきでござる。
  ペンは剣よりも強し。
  獣身人心
  米は損なり。
  一杯、人、酒を飲み、三杯、酒、人を呑むという諺あり。
  独立自尊。」

  この名文中の「 天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといえり。」は
  今日まで福沢諭吉ご自身の言葉かと感心していましたら、 
  ・・・いえり。とあることに気付かされました。

 アメリカ独立宣言の中の「 全ての人間は平等に造られている」を 引用し、
それはキリスト教国のアメリカが聖書の中から引用していることを学びました。

  ★ ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。
    なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
                        
    ガラテア3章28節 ( 使徒パウロがガラテアの教会に宛てた手紙です )

  すでに神さまは人間はすべて平等であることを示して下さっていました。
  
これほどまでに、福沢家がキリスト教と良い関係であったことを知り、驚きと共に天地創造の神の
ご真実、聖書の素晴らしさを深く味わうことができた素晴らしいオアシス会でした。

 福沢諭吉は明治34( 1901 )年68歳で亡くなりましたが、 死後76年を経た昭和52( 1977 )年に、福沢家の墓を一つにまとめることになり、品川の常光寺にある墓を掘り起こして遺骨を 探したところ、長身の諭吉が着物を着て帯をしめたまま、胸の上で手を重ね、仰向けの姿で透明の地下水にひたり、ほとんど奇跡的にミイラ化された状態で発見され、その後、火葬され現在は菩提寺である港区麻布の善光寺と長子一太郎が眠る東京都営の多磨霊園に分骨され、静かに眠っています。


次回( 9月2日 )のオアシス会では5000円札のおじさまでもあり
「 我太平洋の橋とならん 」でお馴染の新渡戸稲造です。
どんなキリスト教との関わりがあったのでしょうか。楽しみです。