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そういうものに私はなりたい

二週間ほど前のクイズ番組「 Qさま 」で、難易度の高い問題として
宮沢賢治の「 雨にも負けず 」の詩の最後の一行はなんでしょうか?
が出題でした。

雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体をもち

欲はなく決して怒らず いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを 自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり そして忘れず

野原の松の林の陰の 小さな萱葺きの小屋にいて
東に病気のこどもあれば 行って看病してやり

西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいと言い

北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼうと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず
そういう者に わたしはなりたい 

「 雨ニモマケズ 」  宮沢賢治 作

答えは「 そういう者にわたしはなりたい 」でした。

この「 雨ニモ負ケズ 」のモデルになった人がいたことは
みなさんご存じでしたか?

3月号の「 百万人の福音 」で、このモデルは岩手県出身のクリスチャンで
あることを知りビックリでした。

宮沢賢治作の詩『雨ニモマケズ』のモデルとされる斉藤宗次郎。
斉藤宗次郎は、岩手県の花巻に1887年に禅宗の寺の三男として生まれ、
小学校の教師になります。

内村鑑三の影響を受け聖書を読むようになり、洗礼を受けてクリスチャンに
なるのですが、そこからが宗次郎の壮絶な人生の始まりとなります。

当時の日本は、キリスト教を「ヤソ教」「国賊」と呼び、随分と迫害を受けます。
そんな情勢の中、宗次郎も親にも勘当され、小学校の教師を辞めさせられてしまいます。

石を投げられ、何度もガラスを割られ、放水され、家を壊されたこともありました。
さらに、9歳になる長女の愛子ちゃんまでが「ヤソの子供」と言われてお腹を蹴られ、
腹膜炎を起こして亡くなってしまうのです。

しかしながら宗次郎は、そのような苦しみの中でも「御心がなりますように」とくじける
ことなく神様を信じ、神様に従い続けたのです。

牛乳配達と新聞配達のため一日40キロの配達の道のりを走りながら迫害する人々に
キリストを宣べ伝え、10メートル走っては神様に祈り、10メートル歩いては神様に
感謝を捧げた話しはあまりにも有名とのこと。

子供に会うとアメ玉をやり、仕事の合間には病気の人のお見舞いをし、励まし、
祈り続けます。

宗次郎は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく町の人達のために祈り、
働き続け、「でくのぼう」と言われながらも最後まで愛を貫き通したのです。

やがて、宗次郎は内村鑑三に招かれて、花巻を去って東京に引っ越すことになります。
いよいよ花巻の地を離れる日、駅に行くと、そこには町長をはじめ、町の有力者、
学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど
集まっていたそうです。

それは、宗次郎が「御心がなりますように」と祈り、神様の御心に従った強い信仰と、
どこまでも人々を愛し続けた愛の業が為せた結果でした。

その群衆の中に若き日の宮沢賢治も居たそうで、宗次郎の生活ぶりを見ていた賢治が
「こういう人になりたかった」という思いを込めて、「雨ニモマケズ」という詩を書いた
と言われています。

日本のクリスチャン人口は2014年では1951381人となっています。
現在は約200万人のクリスチャンがみ心がなりますようにと毎日
お祈りしています。

「 雨ニモマケズ 」のモデルとなった斎藤宗次郎 ( 1877〜1968 )