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山のひろば   高村山荘  10月20日

               高村山荘(中央)入口

やまゆりの宿の帰り道、高村山荘に寄ってみました。
黄金色に一面染まった田園地帯を走り、その先に高村光太郎が晩年7年間
農耕自炊生活をして過ごした緑に囲まれた平屋の一軒家がありました。
現在の山荘は二重の建物によって保護されています。

               三畝の畑

山荘のまわりには栗の木が沢山生い茂り、小屋の前には三畝( さんせ )
の畑がありトマトやキャベツを植えていたそうです。
ちなみに“一畝=30坪”なので三畝ですから90坪の畑です。
一人で耕すにはちょうど良い面積かも知れません。
現在は家の前に水芭蕉や花菖蒲、紫陽花のお花が植えられていました。

       光太郎自宅のトイレ{ 光 」が彫られています。

火吹き竹で火加減を調整し、炊事洗濯もご自分でされ、障子を日時計に使い、
トイレの戸には光太郎の「 光 」を明り取りに彫り、奥の壁の本棚には
送られてきた本がぎっしり置かれていました。

                自画像

光太郎は明治16年( 1883 )東京下谷区西町に父光雲、母わかの長男として誕生。
5歳の頃にはすでに彫刻への道が決まっていたそうです。
19歳東京美術学校を卒業、研究科に残ります。

          自宅から窓の外の三畝の畑を望む

20歳の時、ロダンの彫刻をはじめて知ります。
23歳、渡米。ニューヨークでは彫刻家ボーグラムの助手・美術学校の夜学生として過ごします。
24歳、ロンドンに渡り、バーナード・リーチを知る。
25歳、パリに移る。
26歳、帰国を決意し、イタリアを旅して日本に帰る。以後、さかんに新芸術を紹介。
31歳、詩集「 道程 」を刊行。智恵子と結婚。
    窮乏のうちにも充足した生活がはじまる。
42歳、母わか没す。

               高村山荘内部

43歳、宮沢賢治アトリエを訪問。
51歳、智恵子の統合失調症。父光雲没す。
53歳、宮沢賢治詩碑のため、「 野原ノ松ノ林ノ・・・・・」詩揮毫( きごう )
55歳、智恵子ゼームス坂病院で没す。

           村人も飲んだ自宅の井戸水

62歳、1945年4月13日、空襲によりアトリエ炎上。
     5月に花巻町の宮澤清六方に疎開
     肺炎臥床。
     8月、宮沢家戦災。終戦
     10月に稗貫郡太田村山口の小屋に移り農耕自炊生活に入る。
     ここに新しい文化の創造を夢みて、詩や多くの書作品が生まれる。

         十和田湖の裸像のためのデッサン

69歳、十和田国立公園功労者記念碑の彫刻制作を決意し帰京。
    東京のアトリエで自炊生活がはじまる。
70歳、1953年、記念十和田湖畔碑休屋に除幕。

72歳、4月、山王病院に入院。
73歳、4月2日早暁、中野アトリエでその生涯を閉じた。

              高村光太郎記念館

光太郎は山荘周辺を好んで散策しました。
山荘から少し離れた小高い丘では、亡き妻・智恵子の名前を遥か遠くの安達太良山
向かって叫んでいたとも言われています。
その丘は現在では「 智恵子展望台 」と呼ばれていますが時間がなく今回はそこまで
行くことができませんでした。

       積雪三尺の小屋に独り住む  光太郎

雪白く積めり。
雪林間の路をうづめて平らかなり。
ふめば膝を没して更にふかく
その雪うすら日をあびて燐光を発す。
燐光あをくひかりて不知火に似たり。
路を横ぎりて兎の足あと点々とつづき
松林の奥ほのかにけぶる。
十歩にして息をやすめ
二十歩にして雪中に坐す。
風なきに雪蕭蕭と鳴つて梢を渡り
万境人をして詩を吐かしむ。
早池峯(はやちね)はすでに雲際に結晶すれども
わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。
わづかに杉の枯葉をひろひて
今夕の炉辺に一椀の雑炊を煖(あたた)めんとす。
敗れたるもの卻(かえつ)て心平らかにして
燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり。
美しくしてつひにとらへ難きなり。